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中国茶の歴史について、それぞれに重複する内容もありますが、一般論・製茶・飲み方・文化という4つの切り口からその変遷を眺めてみましょう。

 

第1章 お茶の発展史  唐に興り宋に盛んとなる

 

 中国では、お茶は「国飲」と呼ばれ、古典の中では「南方の嘉木」と讃えられています。お茶を生産し飲むという歴史は数千年も経っていて、現在では健康や文化、生活において需要が多様化し、お茶に対しても新しい需要が生まれています。お茶には、病気の予防や健康に良い成分が多く含まれているので、自ずと多くの消費者を惹きつけています。お茶は既に日常生活に欠かせないものであり、天然の保健飲料として期待はますます高まっていくことでしょう。

 

<太古の時代>

 中国での飲茶の源流は、紀元前2737年、神話の時代の神農氏に遡ります。唐代の茶聖・陸羽も『茶経』の中で「茶の飲たるは神農氏に発す」と言っています。神農氏は偶然、野生の茶葉を混ぜて煮た湯を飲んで、神秘的な清々しさを感じたといいます。別の逸話では、神農氏は百の草を食べ毒にあたったが茶葉を噛んで解毒したいいます。この時から人間はしだいに薬用、食用、飲用についてお茶への理解を深めていくのです。「神農本草経」には「神農嘗百草、日遇七十二毒、得茶而解之(神農氏は100種類の草を食べて、ある日72種類の毒に冒されたが、茶葉で解毒した)」とあり、これがお茶の薬としての利用の始まりといえるでしょう。

 ちなみに紀元前1122-1116年には、中国の巴蜀地方(現在の四川省付近)でお茶を貢ぎ物にして献上していたとの記載があります。

 

<周秦両漢時代>

西周/『華陽国志』には、紀元前1000年頃、周の武王が紂王を討伐した頃、巴蜀地域では茶葉が献上品とされていたことが記されていて、これが茶を献上品とした最初の記述とされています。

東周/春秋時代、斉の景公の在位期(紀元前547〜490年)、相国・晏嬰について書かれた『晏子春秋』 には 「食脱粟之飯,炙三弋、五卵,茗菜而已(茗とは茶のこと)」とあり、お茶が食用に供されていたことがわかります。

 春秋戦国時代の後期から前漢の初めにかけ何度か大規模な戦乱があって、大きな人口移動がありました。特に秦が四川をも統一してから、四川とその他の地域で貨物の行き来や経済の交流が進み、お茶の栽培、製茶の技術とお茶を飲む風習は当時の経済・政治・文化の中心である陝西、河南などへと広がり、これらの地域は北部で最も古いお茶の栽培地区となります。その後、長江に沿って中流、下流へ、さらに南部の各省へ伝播していきます。

前漢:紀元前59年には「烹荼尽具(茶を煮る、茶具を洗う)」、「武陽買茶(武陽に行き、茶を買ってくる)」という記載があり、四川一帯ではお茶が商品として扱われていたことがわかっています。これがお茶の商売に関する最初の記述といわれています。

後漢:後漢末期、三国時代の医学家・華佗が『食論』の中で「苦荼久食、益意思(苦茶は長く食べればその意味を増す)」と記し、これがお茶の薬理効果についての初めての記述といわれています。

 

<三国時代>

 江南地方でお茶を飲んでいたとの記録は三国時代に始まります。歴史書『三国志』には「密賜茶荼以代酒」とあり、呉の君主・孫皓(孫権の子孫)が酒の飲めない者のため密かに酒の代わりにお茶でもてなしたという物語を記述しています。これが現代中国でも使われる「茶を以て酒に代える」という言葉の最初の記述と言われています。

 

<両晋南北朝時代>

 この時期には、茶の生産が次第に増え、歴史書の中で飲茶について書いた内容も多く見られるようになります。さらに晋以降、相当程度に商品化され生産量も増えたので、お茶は珍しい贅沢品ではなくなりました。商品化されてからは、高い値段で販売するため細かい気配りの上で採取・製造され、品質も高まります。

 南北朝の初期には上等なお茶を献上品にしていました。南朝の宋山謙の書いた『呉興記』には「浙江省鳥程県(今の呉興県)の西へ20里ほど行くと温山があり、そのお茶は、献上品専用に作られている」とあります。漢の時代、仏教は西域から中国に伝わり、南北朝時代には更に盛んになります。仏教は座禅を提唱しましたが、茶を飲むと心が落ち着くので心を静めて修行するのに向いていて、夜飲めば眠気を払うこともでき、お茶と仏教は切っても切れない関係となります。これにより茶を飲む風習は次第に広がり、茶の名声は世に知れ渡ることになります。そして、名山や大河、お寺のある山地や封建時代の荘園が茶樹を植えはじめます。中国の多くの名茶は、初め仏教と道教の聖地に植えられたのです。例えば、四川蒙頂、盧山雲霧、黄山毛峰、天台華頂、雁蕩毛峰、天目雲霧、天目青頂、径山茶、龍井茶など、全て名山や大河にある寺の付近で生まれたものです。こうして見ると、仏教と道教の信徒たちがお茶の栽培、製茶や伝播に一定の役割を果たしたといえるでしょう。ただ当時、お茶はそれほど普及していないので、お茶を飲むはあくまで支配階級が高尚な生活を楽しんだり、文人墨客が情感豊かに文を綴るのに役立つという意味あいに限られていました。

 南北朝以降、士大夫と呼ばれる読書人などが、現実を逃れ、終日清談にふけりお茶を飲み詩を作るといった生活をするようになり、茶の消費量もさらに増えていきます。江南地域ではお茶は「比屋皆飲(どの家でも皆飲む)」というほど普通の飲み物になりました。江南ではお客様が来るとお茶を出すというのはひとつの礼儀となりました。

 

<唐の時代>

 唐代はお茶が飲み物として広がり普及する時期で、上流階級から全ての人々へと広がっていきます。

 唐の代宗皇帝は大暦五年(西暦770年)、顧渚山(現在の浙江長興)で貢茶院の建設を始め、毎年、清明節前に貢茶院へ多くの役人を遣し製茶を監督させ、顧渚紫筍という餅茶を作り、都へ献上させていました。

 唐の徳宗の時代、建中元年(紀元780年)には、趙賛の提案を受け、茶税の徴収を開始します。

 この頃、陸羽が茶に対する考察と経験を『茶経』にまとめました。これが茶を専門的に扱った世界最初の書物となります。彼は先人の記した要諦と詩人の気質や芸術思想を『茶経』にちりばめ、中国の茶文化の理論的な基礎を固めました。これ以前には、茶は色々な名前で呼ばれていましたが、陸羽は「茶」という字を統一して使い、後世「茶」という総称が確立するのに大きな役割を果たします。この時期、お茶を飲む風習は既に盛んで、貴族だけでなく、民間へも広く流行し始めています。

 唐の順宗の時代、永貞元年(紀元805年)、最澄大師が唐から茶の種を日本へ持ち帰り、これが日本へお茶が伝わったという文献上、最初の記載となります。

 唐の懿宗の時代、咸通十五年(紀元874年)にはお茶専用の茶具が現れます。

 まとめると、唐が国家を統一し軍事力による支配から文治へと移り、農業を重視したことが、茶の生産の発展を促したといえます。国内が平和で社会が安定し、農業と手工業が発展するのに伴い、お茶の生産と取引は急速に発展し中国史上第一のピークを迎えます。お茶を飲む人は全国に遍く広がり、地域によってはどの家でもお茶を飲むのが習慣となりました。茶の産地は長江、珠江流域や陝西、河南など14地区の州と郡に広がり、当時、武夷山で作られた蒸青団茶が特に高い評価を受けています。唐の中期以後、70余州、340余県がお茶を生産していて、現在でいうと14の省、直轄市、自治区に分布していたことになります。

 

<宋代>

 宋の太宗の時代、太平興国年間(西暦976年)、建安北苑(現在の福建建瓯東峰鎮)に「宮焙」という機構が設置され、「龍鳳団茶」という朝廷専用の貢茶を作り始め、このお茶が大きく発展していきます。

 宋の徽宗・趙佶は、大観元年(西暦1107年)、自ら『大観茶論』という一冊の本を著し、帝王の威光を以て茶学を唱導、茶文化を発揚しました。

 北宋と南宋の時代、茶葉の生産は、唐代から五代までに築かれた基礎の上に徐々に発展していきます。全国の茶葉の産地は更に広がり、選りすぐって作られた各地の名茶も数多く、生産量も増えました。宋代には、社会や文化における茶文化の在り方が広がったので、歴史の上では「茶文化は、唐代に興り、宋代に盛える」と言われます。宋代の人々のお茶を飲むスタイルは精緻を極め、茶葉の品質や、火加減、煮方、飲み方の効果などに非常にこだわったため、茶道が隆盛を極める一方、茶芸は煩雑で細かく、贅沢なものとなりました。

 

<元代>

 元代になると、茶葉の生産は更に大きく発展します。元代半ば、製茶にあたる人々は技術を絶えず高め、手間にもこだわり、そうしたお茶の一部は各地の特色豊かな名茶となります。当時、こうした名茶は珍重され、特に南方で高く評価されています。元代の茶葉生産におけるもう一つの成果は、機械を使った製茶です。王楨の『農書』によると、当時、一部の地方では「水転連磨」、つまり水力で茶磨や椎具といった道具を動かし茶葉を砕いていたそうです。茶葉を大きく砕いた宋代の碾茶に比べ明らかに前進したといえるでしょう。

 

<明代>

 明の太祖は、洪武六年(西暦1373年)に茶司馬を設立し、茶の流通を専門に管理します。

 明の太祖・朱元璋は、洪武二十四年(西暦1391年)9月に法令を出し、過去の悪制をとりやめるということで、団茶を廃し、葉茶を振興することにします。これ以降、貢茶は団餅茶から芽茶(散茶)に換わり、発酵を止める殺青という加熱処理の際に「炒め」を用いる炒青茶の発展に大きく影響します。明代は中国古代において製茶技術の発展が最も速く、成果も最も大きい重要な時代で、現代の製茶技術の発展に通じる確固たる基礎を築きました。

 1610年、オランダ人はマカオでお茶を購入し欧州へ輸送します。1616年、中国茶は、遠くデンマークで販売されています。

 1618年、明の朝廷は欽差大臣をロシアに派遣、ロシア皇帝に茶葉を贈呈しました。

 総じて明代は茶店を経営するのも既に一般的なことになっていて、飲み方もお茶を煮る方法から次第にお湯を注ぐ「泡茶」に代わり、お茶を楽しむ場所も室内から室外へと移ります。当時の社会では「点茶」「闘茶」の会が流行し、お互いの技術を競い合う様子が壮観だったと言われます。お茶を飲む習慣も日増しに普及していきます。明代の製茶の発展は、まず、製茶技術の進歩に現れます。元代の殺青方法は蒸青で、揉捻は「略揉」に過ぎませんでした。明代になって一般にはすべて炒青に代わり、ごく少数の地方のみ日光に当てる晒青を行っていました。同時に茶葉の外観の美しさにも目を向けるようになり、揉捻して茶を細長い形に仕上げるようになります。以降、お茶を飲む際には煮るのではなく湯を注ぐ泡茶が一般的になっていきます。

 

<清代>

 清代初めには精緻な茶文化が再び現れます。製茶やお茶を淹れて飲むといった「茶事」は、宋代ほど煩雑ではなかったのですが、お茶を飲む習慣が次第に弱まる傾向も見えてきます。

 1657年、中国の茶葉がフランスの市場で販売されました。

 康煕八年(西暦1669年)、インドに属する東インド会社が、ジャワ島西部の万丹から中国の茶をイギリスに輸入し始めます。

 康煕二十八年(西暦1689年)、福建省のアモイから茶葉7500kgを輸出、中国の内陸から直接イギリスに輸出する先駆となりました。

 1690年、中国の茶葉がアメリカのボストンで販売許可証を獲得しました。

 光緒三十一年(西暦1905年)、中国は初めてインドやスリランカへ赴く考察団を組織し、茶葉の生産・製造を考察、一部の製茶機械を購入し、中国に茶葉の機械製造技術やノウハウをもたらします。

 1896年、福州市に機械製茶会社が成立、これが中国最初の機械製茶企業です。

総じて、清代には中国の茶葉生産は既にかなり発達していて、江南地区のお茶の栽培は一層の普及をとげています。資料によると1880年、中国の茶葉輸出高は254万担(一担=50kg)、1886年には最高で268万担に達し、これが当時の中国の茶葉輸出の最高記録となっています。

 

<現在の発展>

 現在、お茶は世界三大ノンアルコール飲料の一つに数えられ、お茶を好む人々は世界中に広がっています。茶葉の伝播につれ、生産と消費は全世界のほとんどの国と地域に広がっています。世界中の人々に好まれ三大飲料の一つと呼ばれるまでになり世界のお茶産業も急速に発展しています。世界五大陸では50の国がお茶を栽培しており、特に生産地区はアジアに集中、アジアの生産高は世界総生産量の約80%以上を占めています。

 中国は、お茶の発祥地であり人口も多く国土も広いので、茶葉の生産量と消費量も世界一。中国は六つの気候帯をまたぎ、地理的に見れば、東は台湾の基隆から、西はチベット南部の察隅河谷、南は沿海の海南省瓊崖、北の山東半島に至るまでほとんどの地区でお茶が生産できます。中国全土は大まかに、江南茶区、江北茶区、華南茶区、西南茶区の四大茶区に分けられています。茶葉生産地の分布は、主に江南茶区に集中し、特に浙江省と湖南省の生産量が最も多く、次に四川省と安徽省となります。

 甘粛省、チベット、山東省は、新しく発展したばかりの生産区で、年間の生産量は、まだあまり多くありません。

 中国の共産党と政府は、茶葉の生産をとても重視し、数多くの茶葉生産基地を建設し、茶業に関する教育と科学研究を発展させ、中国の茶葉事業を力強く発展させました。全国で名茶が栄え、その姿は様々で、それぞれ特色を持っています。例えば、西湖龍井、廬山雲霧、君山銀針、黄山毛峰、洞庭碧螺春、蒙頂甘露、安溪鉄観音など香りが遠くまで漂うかのように、中国でも、外国でも、名を馳せています。中国全土では、合わせて16省、600以上の県で茶を生産し、茶葉の栽培面積は100万ヘクタール以上で世界一、世界の茶園面積の44%を占め、生産高は800万担以上を超え世界第2位、世界総生産量の17%を占めています。1984年、全国の茶葉輸出は280万担以上、世界輸出総量の16%を占め、2億ドルの外貨を獲得しています。

 茶葉生産の拡大につれ、中国全土の茶葉科学研究機関や教育機関も大いに発展し、科学研究や教育のネットワークも作られ、数多くの研究成果の応用も進められています。科学的な茶葉栽培、製茶、茶業管理のレベルも絶え間なく向上されており、中国の茶葉生産の堅実な基礎となっています。

 

 

 

 

 

 
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