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4.茶文化の継続発展期(元明清)

 中国の古代、茶文化の発展史上、元・明・清代も重要な段階です、茶葉の消費と生産、お茶を飲む技法のレベル、特色など、どの方面でも、人々を陶酔させる文化的な魅力を発しています。特に茶文化が宋代から市民階層に深く入りこんで(最も目立つのは、大小都市に広く興った茶館、茶楼)以来、各種の茶文化は、引き続き宮廷、宗教、文人士大夫などの階層でも継続・発展しつつ、その精神はさらに広く民間に根を張り、士、農、工、商いずれもお茶を友人の集まりや、付き合いのなかだちとしています。異なる地区、異なる民族がみな、非常に内容豊かな「茶民俗」を持っています。

 元代は、歴史の短さと制約があり、文化面では総じて輝かしい発展は見られなかったものの、茶学と茶文化の面では、唐宋時代以来の優秀な伝統を受け継ぎ、さらに発展と創造を遂げました。もともとお茶と縁の無かったモンゴル族は、中原の主人となってから、次第に茶文化の薫陶を受けました。モンゴルの貴族がお茶を尊重したことが、茶葉生産を刺激し、茶芸の向上を促します。元代の茶文化の特色には、主に二つの面があります。

 元代には既に散茶がありました。餅茶は主に皇室、宮廷で使われ、民間では主に散茶を使います。散茶の普及により、茶葉の加工には炒青の技術が使われるようになり、花茶の加工も整った体系となりました。漢民族とモンゴル族の飲食文化の交流により、モンゴル族の特色を持った飲み方も形成され、泡茶という現在のようにお湯を直接、茶葉に注ぐ淹れ方が現れました。これが、明代に炒青散茶が興るのための基礎となりました。これがその一です。

 元代は、知識人を尊重せず、長い間科挙を停止し、官への途がとても険しかったので、多くの文人は、茶や詩文の中で自嘲し、また自らを慰め、散曲や小令という短い詩をもってお茶に名を借り思いを表します。有名な散曲家の張可久は、官位を捨て西湖に隠棲し、お茶とお酒を楽しみ、『寒児令・春思』を著し自分の志を語りました。喬吉は大きな志を持ちながら実現できず「万事従他(全てを放り出す)」と嘆きつつ、茶の中に楽しみを見出し「香る梅の枝の雪でお茶を煮る」と記しています。お茶は元曲(元代の散曲)にも入り込み、文学芸術において茶文化を表現する形がひとつ増えました。これがその二です。

 

 明代は、お茶を楽しむ風習がとても盛んで、中国の茶文化はまた一つの隆盛期を迎えます。その特色には主に三つの面があります。

 第一に、飲み方における重大な変革がありました。歴史上、正式に国の法令の形式で団餅茶を廃したのは、明代の太祖・朱元璋です。彼は、洪武二十四年(西暦1391年)9月16日に詔勅を出し、龍団の製造を廃し、茶の芽のみを摘み取り献上させることにしました。以降、皇室に献上するのは、芽葉という形の蒸青散茶であれば良いということになります。皇室が散茶を飲むよう提唱したので、民間は自ずとこれになびき、さらに茶葉を飲む煎煮法は、湯を注いでそのままで飲む沖泡法になりました。これは、お茶の飲み方の革新であり、千年の昔から長く受け継がれてきた飲み方が変化したのです。

 第二に、紫砂茶具の発展が隆盛期を迎えました。紫砂茶具は、宋代から明代にかけ各文化の領域を横断した潮流の影響や、文化人の積極的な参加とその導き、紫砂を作る技術の向上、すぐ淹れられる散茶の流行など様々な理由により、徐々に繁栄の道を歩み始めます。宜興の紫砂茶具の製造は、明代正徳年間に始まったと伝えられます。当時、宜興の東南に金沙寺という寺があり、中に、金沙僧と尊称される僧がいました。平素お茶を嗜み、当地の紫砂から細砂を選び、手で捏ねて円い生地にし、蓋、柄、口を取り付け、窯で焼き、中国最初の紫砂壺を作りました。その後、龔(供)春という未成年の使用人が、主人の学習に付き従い金沙寺に来ました。彼は巧みに金沙僧を真似て、壺を作る技を習得しました。彼の作る壺は「供春壺」と呼ばれ、珍品として「供春の壺は白玉に勝る」と言われ、供春自身も、紫砂壺の本当の意味での創始者、最初の製壺大師として称えられています。明代の万歴年間に到り、董翰、趙梁、元暢、時朋の「四家」が現れ、その後、また、時大彬、李仲芳、徐友泉ら「三大壺中妙手」が現れます。明代の人々は、熱狂的といえるほど紫砂壺を高く評価しています。「現在、呉では、お茶を好む者は必ず宜興紫砂の話をする」「一つの壺の重さは幾両もないが、価値は一つが十、二十金で、土を使っているのに黄金と価値を争うほどだ」といった言葉により、明代の人々が、どれほど深く紫砂壺を愛していたかがわかります。

 第三に、お茶について本を著し、説を立てるのが改めて盛んになりました。中国は、初めて茶書を著し説を立てた国で、明代には再び隆盛期を迎えますが、さらに、はっきりした特色があります。明の太祖・朱元璋の第17番の息子である朱権は、西暦1440年前後に『茶譜』という本を書き、お茶を飲む人、楽しむ環境、飲む方法、飲む際の儀礼について詳しく紹介しました。陸樹声は『茶寮記』で、小さい庭の中に茶室を作り、茶灶、茶炉を用意し、窓は明るく机はきれいで、世俗を離れ優雅な雰囲気に包まれた様子に触れ、自然と調和の美を強調しています。張源の『茶録』では、「製茶するときは精細、保存するときは乾燥、淹れるときは清潔。精、燥、潔、茶道はこれに尽きる」と記し、簡潔明瞭に茶道の真諦を表しました。明代の茶書は、茶文化の各方面に整理、説明、開発を加えています。その創造性と突出した貢献は、明代の茶業、お茶に関する政治の空前の発展、中国の茶文化の先人の業を継ぎながら切り開かれた斬新な局面を全面的に示したことで、その成果は現在にも影響を与えています。

 

 清代に至り、茶文化の主な特徴は三つあります。

 第一に、更にこだわった飲み方が形成されました。清代の満族の先祖は、もともと中国東北地方の狩猟民族で主に肉を食べており、北京に入り統治者となってからは、華美な暮らしによって消化効果が高いお茶の必要性が高まりました。プーアル茶、女児茶、プーアル茶膏などは、帝王、妃、また、皇帝の禄を食む貴族たちに深く好まれ、ある者はお茶を淹れて飲み、ある者はミルク茶を煮ていました。お茶を自らの命のように愛し、嗜んだ乾隆帝は、お茶や水の鑑定に多くの独自の観点を持ち、歴代帝王の中でも茶詩を最も多く書いた皇帝の一人です。彼は、晩年退位した後に、北海鏡清斉の中に、専門の「焙茶塢」を設立し、のんびりとお茶を楽しみました。民間の人々の飲み方に対するこだわりも様々な方面に現れています。例えば、「お茶を淹れる際、精選した茶葉を茶甌(碗)に置いて沸騰した湯を注ぐのが杭州の民俗で、これを撮泡と言います」。清代の後期に至り、市場では六大茶類が売られており、人々は、単一のお茶を飲むのではなく、各地の風俗習慣で異なるお茶を選びます。例えば、浙江、江蘇あたりの人々は、みな緑茶を飲み、北方の人は、花茶や緑茶を好みます。こうして、異なる地方、民族の茶の習俗が徐々に形成されました。

 第二に、茶葉輸出の歴史的な盛期を迎えます。清代の初め、イギリスを始めとする資本主義国家が中国からお茶を大量に輸入販売し、中国茶葉の海外ヘの輸出量は急激に増加しました。イギリスが16世紀に中国から茶葉を輸入してから、お茶は次第に普及し、独自の習慣が生まれ、お茶を淹れる技法や儀礼にもこだわるようになりますが、そこには、多くの中国茶礼の痕跡が残っています。早期のロシアの文芸作品には、茶宴や茶礼の情景についての描写が多く見られ、これも中国茶文化が早い時期にロシアの民衆生活の中に存在していたことの反映といえるでしょう。

 第三に、茶文化は小説の描写対象となり始めます。詩文、歌舞、戯曲などの文芸形式には、お茶を描いた内容が数多く見られます。多くの小説に、茶文化の影響が十分に現れています。「『紅楼夢』という本は、どこもかしこも、茶葉の香りが漂っている」『紅楼夢』は260箇所以上でお茶に言及し、お茶を詠んだ詩も十首以上あります。そこに記載された様々な飲み方、豊富な名茶の品種、珍しい骨董の茶具、お茶を淹れるのに用いる非凡な水など、中国の歴代文学作品では、最も全面的に茶芸を描いたものです。

 清代末期から、中華人民共和国が建設されるまでの100年以上の間、資本主義の侵入、頻繁な戦争、社会の混乱により、伝統的な中国茶文化は徐々に衰え、茶道は、中国の大部分で次第に簡略化されていきますが、中国の茶文化が終わったということではありません。全体的な趨勢から見れば、中国の茶文化は下層へと広がり、このことで茶文化の内容はさらに豊富なものとなり、その生命力は強まりました。清代末期、民国初頭の社会においては、都市や郊外の町では、茶館や茶肆があちこちに林立しており、大きな碗でお茶を出す露店がいたるところにあり、夏の盛りには、道ばたの茶亭や、善意で準備された大きな茶缶があちこちに見られました。「客が来たらお茶でもてなす」のは、一般家庭の礼儀と美徳になっています。

 

 

 

 

 

 
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