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第4章 茶文化史 遥聞境会茶山夜

 

 

<歴代の茶文化の概況>

 お茶は茶文化の中にありながら、また、茶文化の源でもあります。神奇な天然茶樹があってはじめて後世のお茶の発見と利用があるのです。千百年来、各王朝の数多くの文人、士大夫がお茶を楽しむ流れは盛んで、こうした茶を飲む風潮が受け継がれ広がることで、徐々に、中国の茶文化が形成されていきました。

 

 

1.茶文化の萌芽時期(魏晋南北朝時期)

 お茶を飲むことに関して、中国には長い歴史があります。中国はお茶の原産地といわれています。植物学者の考証によると、地球上、茶樹という植物の存在には、既に六、七千万年の歴史があり、お茶の発見と利用も少なくとも数千年の歴史があります。お茶に文化があるのは、人類の物質、精神両面での創造がなされた結果です。一説によると四千年以上前から、中国人の先祖はお茶を飲み始めました。秦代と漢代の境に、民間でお茶を飲み物として利用し始めたのは、巴蜀(四川と重慶あたり)からです。前漢以降、お茶を飲む風習は、長江以南の地域に発展し、次いで、長江以北にも拡大しました。魏晋南北朝に至りお茶を飲む人は次第に増えていきました。

 お茶の飲み方は、口に入れ咀嚼し汁を吸う、生の葉を煮て羹にして飲むなど最初の段階から、魏晋南北朝時代になると餅茶を煮て飲む段階に入りました。当時のお茶の飲み方は、主に、お茶を味わう、果物と一緒にお茶を飲む、酒代わりに茶を用いる茶宴、茶粥の四種類です。

 お茶が自然の物質でありながら文化の領域に進んだのは、飲み物に始まりつつ、精神的に積極的な作用があるということが発見されたからです。一般的に、また厳密に言うと、文化はまず、文化人や統治階級が唱えることで徐々に形成されるものです。統治階級と文化人が、お茶を飲む行為を高級なものとみなし、精神的な力を持つものとして楽しみ、自然における使用価値を超える精神的な価値を与えたことで茶文化は現れえたのです。こういう過程は、東晋と西晋の時代に始まりました。特筆すべきは、茶文化が現れると、健康で風流な精神を支える力として、当時蔓延していた贅沢な風潮と対抗するようになったという点です。

 魏晋南北朝時代、お茶が文化や精神の領域に浸透したという事実は、主に以下の三つの方面に表れています。

 第一に、お茶で、清廉な心を養い質素な暮らしを表す模範となる事例が見られました。

 東晋と西晋の時代、「贅沢すぎることの害は天災より甚だしい」といわれ、贅沢で酒色に溺れる暮らしぶりによって世相が悪くなり、一部の有識者には病理とみなされていました。そこで、陸納はお茶を清廉なものと考え、恒温は酒の代わりお茶で宴会を行い、南斉の世祖・武皇帝は、お茶で質素な暮らしぶりを示すといった事例が現れます。陸納、恒温などの政治家は、お茶で清廉な習慣を養い質素を示す本来の意味は社会の悪い風潮を正すことであるとし、これは権力者と有識者の共通の思想上の方向性、つまりお茶で清廉の意義を表し奢った暮らしに対抗するという方向性を体現しています。その中で最も有名なのは、陸納がお茶でお客を招待したという故事です。

 東晋の時代の陸納は、清廉で人々に知られ、呉興の太守に任じられた際、非常に名声の高い衛将軍・謝安が彼を訪ねました。このような貴重なお客様に対し、陸納は贅沢にせず、ただ一杯のお茶と新鮮な果物でもてなしました。彼の甥はまったく理解できず、叔父が吝嗇で面目が立たないと考え、勝手にテーブル一杯の料理を用意しました。お客さんが去った後、陸納は甥を40回棒で打つよう命じ、打たれる間に「私の栄誉を高めるどころか質朴な家風を汚した」と言います。陸納の考えでは、お茶で客をもてなすのは最高の礼儀であると同時に自らの清廉さを示せる行いなのです。

 もう一つの故事は、劉琨が寂しく鬱いだ気分をお茶で癒したというものです。西晋の終わり、皇室の内部では争いが生まれ、天下は大いに乱れ、北方の匈奴がこれに乗じて侵入してきます。劉琨は軍隊を失い国土が奪われるのを目の当たりにし、休まる日もなく非常に苦しみ、ただ常にお茶を飲み愁いを癒すばかりでした。当時北方辺境を守っていた劉琨は、甥である南兗州刺史の劉演ヘ宛てた手紙の中に「以前、君から届いた安州の干し生姜1斤、桂皮1斤、黄芩1斤。これらは全て必要なものだが、苛立ち心が乱れる時は、いつも本当に良いお茶を飲んで気持ちを和らげねばならない。だから良いお茶を買って送ってくれまいか」と書きました。

 西暦5世紀末の南朝に至り斉の武帝・蕭賾は遺詔で「私が死んだら家畜を犠牲にして祭らぬよう。菓子、果物、お茶、ご飯、酒と果物の砂糖漬けで十分だ」と述べます。後代の人はこれに対し、斉武帝は慧眼でお茶を識っていたと評します。周の武王から斉の武帝まで、相次いでお茶は雅なものとされ、祭祀に用いる品として捧げられたことから、人々がお茶に向かう際のあるべき精神と品格が次第に認識されていったことがわかります。

 第二に、お茶は宗教の領域に入ります。道家は、気功を修練する際、座禅を組み内省する必要がありますが、お茶には頭をはっきりさせ、体内の気血の流れを良くする作用があるので、お茶を飲むことで仙人となるという故事や伝説が現れました。こうした物語と伝説は『続捜神記』、『雑録』などの本に記されています。南北朝時代、仏教が興り始めます。当時は戦乱が絶えず僧侶がお茶を飲むよう薦めたことで、お茶に仏教の色彩が生まれ、「茶禅一味」という思想の誕生が促されました。

 第三に、お茶は、文化人が褒めたたえ、詩に詠む対象となり始めます。魏晋時代には、既に、文人が直接あるいは間接に、詩文の中でお茶を楽しむことを讃えています。例えば、杜育の『くさかんむり舛※賦』、孫楚の『出歌』、左思の『嬌女詩』などです。その他に、文人名士はお酒もお茶も飲み、お茶を会話の一助として清談しながら茶を飲む風習を生み、これにまつわる面白い物語も生まれました。

 まとめると、魏晋南北朝時代には、お茶を飲むのは、一部の皇室や高官、文士や雅を愛する人々から、優雅な精神を享受し自らの志を表す手段と見なされていました。この段階は、茶文化の萌芽期でありながら、既にその独特な魅力が顕れています。

 

 

 

 

 

 
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