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3.茶文化の隆盛期(宋代)

 茶文化は、唐代に興り宋代に盛えました。宋代の茶葉生産は空前の発展を遂げ、茶を飲む風習が非常に盛んになり、豪華を極めた宮廷茶文化が形成され、また、趣あふれる民衆の茶文化も興りました。その他、宋代の茶文化は、唐代の精神的な趣を重視する伝統を受け継ぎ、儒学の内省という観念を茶を飲むという行為に浸透させ、また、社会各層がお茶を日常生活と儀礼の中に取り入れ、元明清の各代へと継続させました。唐代と比べ、宋代の茶文化には、以下の三つの面において顕著な特徴が見られます。

 第一は、「龍鳳茶」を代表とする精細な製茶工程の形成です。

宋代の気候は寒冷で、通常の年平均気温は、唐代より2〜3度ほど低くなります。特に一度寒波が襲った後、多くの茶樹が冷害を受け、茶葉の生産は重大な被害を受けました。そこで貢茶の生産は南へ移動します。太平興国二年(977年)に、宋の太宗は、「普通のお茶と区別し、龍鳳の形を採用し、献上させる」ために、官人を建安北苑に派遣し専門的に龍鳳茶の製造を監督させました。龍鳳茶は、型で茶膏を圧縮し、表面に、龍、鳳、花、草の図案を刻んだ餅茶です。型で圧縮し成形した茶餅に、龍鳳の形が刻まれています。龍は皇帝の象徴で、鳳は吉祥を表すので、龍鳳茶は皇帝の尊厳を表し、また、皇室と貧民の区別を強調してもいたのです。宋の徽宗は、『大観茶論』の中で、「採取と選択の細かさ、製造における手のかけよう、品質の優れたる程度、煎じ点てる巧妙さは、どれも、最高の境地である」と記しました。

 宋代に創造された「龍鳳茶」は、中国古代の蒸青団茶の製造技術をよりいっそうの高みへと推し上げました。お茶における審美の範囲も、色、香り、味の評価から形の鑑賞へと広がり、後代、茶葉の形を整える芸術が発展していくにあたり、審美という面での基礎を作りました。現在、雲南省で生産される「円茶」「七子餅茶」等と、一部の古い中国茶店に見られる「龍団」「鳳髄」といった名茶ブランドは、宋代の龍鳳茶を踏襲したもので、龍鳳茶が残した痕跡なのです。

 第二は、「闘茶」という習俗の形成と「分茶」の技法の出現です。

 「闘茶」は別名「茗戦」と呼ばれ、つまり、お茶の試合で、茶葉の質の優劣を定めることを戦いに見立てています。宮廷、寺院、文人の集まりで茶宴が次第に盛んになるのに伴い、特に一部の地方の官吏や権力者が、皇帝の歓心を博するために、様々な方法を考え、品質の優れたお茶を献上しようとする。すると先に茶葉の質を比べる必要があるので、闘茶という風習は日増しに盛んになっていきます。范仲淹は、『和章岷従事闘茶歌』で、茗戦の様子を描き次のように述べています。「闘茶は、勝てば仙人のように手の届かない高みに昇り、負ければ投降した将軍のように恥ずかしくてたまらない」。闘茶は、上流階級で流行したばかりではなく、民間にも普及し、唐庚の『闘茶記』は、これを記して次のように述べています。「政和二年、三月壬戌、二三人、闘茶するべく寄傲斎に集まった。龍塘の水を取りお茶を煎じ、その優劣を比べ、あるものは上品、あるものは次点と評価する」三〜五人の知己が、自分の持っている良い茶を取り出し、順番に楽しみ、その優劣を判定し、上下を分けるのです。

 宋代には、また、技巧性の非常に高い、茶を淹れる技法が流行し、分茶と呼ばれました。宋代の陶谷が著した『清異録・百茶戲』には「近世は、分茶の際、特別な技法で茶湯の表面に物象を表現できる。鳥や獣、虫魚花草などで、精巧で絵のようだが、わずかの間にその形はなくなる。これが茶の変で、人々は「茶百戯」と呼ぶ」とあります。

 闘茶と分茶は、お茶を点てる技法という面では同じですが、その性質から言えば、闘茶は茶俗、分茶は主に茶芸です。両者には関連があり、また違いもあります、共に茶文化のもつ豊かな趣を体現しています。

 第三は、茶館の隆盛です。

 茶館は、また、茶楼、茶亭、茶肆、茶坊、茶室、茶居などとも呼ばれ、簡単にいうと、営業を目的としてお客さんに提供される、お茶を飲む場所です。唐代は茶館の形成期で、宋代は茶館の盛んな時期です。  

 五代十国の時代以降、都市経済の発展と繁栄に伴い、茶館、茶楼が急速に発展、繁栄しました。都である汴京(開封)は、北宋の政治、経済、文化の中心であり、また北方の交通の要衝です。当時は茶坊が建ち並び、特に繁華街と住民が集中するところに多く見られました。北方の遊牧民族の強い圧力を受け、南宋が都を臨安(現在の杭州)に移した後も、茶館は衰えることなく盛んでした。「いたるところに茶坊,居酒屋,麺店,果物,絹,毛織物,香りのする蝋燭,醤油,米,副菜の魚肉,干し肉等の店がある」。『都城紀勝』によれば、都の茶坊は非常にこだわりがあって文化的な雰囲気が色濃く、室内には名人の書画を掛け、客の目を楽しませていました。

 『夢梁録』にも「現在杭州では茶肆も……四季の花を挿し、名人の絵を掛け、店先を飾ります。茶坊では、特別なお茶や汁物を売り、冬はさらに七宝擂茶、揚げ麺、葱茶、塩鼓湯を売り、夏は、雪水で冷やした梅の花の酒も売っている」とあります。

 大都市の茶館が盛んになり、山間部や郊外の町の茶店茶館も設備は粗末ながら、至るところにありました。その茶店は山間の集落あるいは水郷に作られ、およそ人の集まるところには必ず茶館がありました。

 宋代の文人がお茶について詩歌に詠んだ作品も非常に多く、その詩文の中には、お茶についての政策を批判するものもあり、茶芸や茶道を細やかに描いた作品もあります。宋代のお茶の専門書も比較的多く25部あり、唐代より19部多いのです。

 

 

 

 

 

 
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